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VOICE OF DESIGN Vol.7-4 2002年3月
特集:JDフォーラム
「水とデザイン[1]」
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基調講演
「水の美学」と日本の造形
大橋 良介 / 京都工芸繊維大学教授
日本人独自の「水の感性」
日本では水の美学ともいうべき系譜が形成されています。他の国、他の文化圏と比べて際だった仕方で、日本の造形のなかで浮かび上がってくる水の美学、あるいはその感性の系譜があります。この伝統が、高度成長を終えて、経済危機に直面している日本の現在で、果たしてどういう意味を持つのかも、私の考えているところをお話したいと思います。
日本文化の中で培われた感性・感覚、これが造形の中に、たとえばデザインの領域で、どのような意味を持つかということにも少し踏み込んでみたいと思います。
 安藤広重 「大はしあたけの夕立」
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 ゴッホ 模写
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まず広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」を見てください。右斜めから左下にさーっと細いきれいな線で夕立が描かれ、人々が走っている図です。テーマは「夕立」です。この広重の絵を、ゴッホが模写しました。確かに構図は似ていますが、肝心の雨の部分が、名古屋のきしめんみたいに太いですね。
蒸し暑い夏の午後に、さっと樹木や家や人々を濡らして、蒸し暑さを一気に拭う夕立ですが、その涼しい夕立をゴッホは知らない。夕立という言葉も涼しいという言葉もヨーロッパにはありません。涼しいというのはcoolとはだいぶ違う。
日本人が水に対して持っている感性は、どこか絵になり、詩になる。文学にもなる。その感性はヨーロッパとちがいます。不思議なようですが西洋絵画には雨の絵はないのです。
雨の絵はヨーロッパにはないといいましたが、『いや、オーストリアの画家でフンデルトヴァッサーがいますよ』という異議が出るかもしれません。この人、1960年ぐらいに日本にやってきて、日本の版画家達と共同制作をしました。そして、雨や水を主題とし始めます。フンデルトヴァッサーという名前自体が、英語でいえばhundred water「百の水」で、これが彼の雅号となります。
フンデルトヴァッサーの例は、日本の雨の絵が日本に独自だということを、かえってよく表す結果となります。
水や火そのものを生の形でテーマに
水と同じことが、実は火についても言えます。日本の絵画では地獄の猛火がしばしば絵になります。文学では西洋にないことはない。ダンテの「神曲」にも地獄が出てきて、火が登場します。しかし火炎のすさまじさはあまり迫力がない。
「応天門の炎上」
これは「伴大納言絵詞」の中の「応天門の炎上」という絵です。燃えさかる炎の絵はヨーロッパにはありません。ヨーロッパにないというと、西洋美術史の研究者は『いや、ターナーにこういうのがあるよ』というかもしれません。
ターナー「国会議事堂の炎上」
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「国会議事堂の炎上」という絵です。ターナーが描こうとしたのは、炎そのものではなくて、炎の色と光、つまり印象派の先駆けの要素です。火というエレメントそのものではありません。
地水火風の自然のエレメントを受け止める感覚が、日本人と西洋人では非常に異なっているという気がします。
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日本の絵画に水や火が生の形でテーマに取り上げられるのは、日本の風土、あるいは日本人の感性が、絵画や造形の中に素材として見えてくる、ということです。特に水の場合にはそれが顕著に出ています。
大きな命の流れに−光琳の紅白梅図
京都の水と関連して申しますと、3年ほど前にドイツのボンで「水」というテーマの会議がありました。物質としての水や環境としての水、川の水など、水のあらゆる側面がテーマになったわけですが、私はそこで初めて水の美学という話をしました。日本で水が問題になるときに、他国で見られない一つの要素は、「水の美学」という系譜が成立することだ、という話をしました。
尾形光琳「紅白梅図」
一番有名な例として、尾形光琳の「紅白梅図」を挙げることができます。これは光琳波という日本の伝統的なデザインの原型です。
中央に水が流れ、川の両側に紅梅と白梅が立っている。右側の紅梅がのけぞるような形で若々しい芽を上に伸ばしている。女性性を感じさせます。逆に白梅はアグレッシブにぐっと上から下りてきて、また上の方へ伸びていく。男性性という感じがします。そうすると女性性と男性性を表す梅の木を両側に持っている中央の川は、いうなれば命の川です。その命の川の一つ一つの波が渦をなし消えては続いていく。個々の命というのは一つ一つの波ですが、全体として大きな命の流れになる。
尾形光琳はおそらくそんなことを考えてこの絵を描いたわけではなくて、左右の岸に紅白梅図を持つ川を描いただけでしょう。しかし、そこに「命の流れ」ともいうべき水のデザインが現れる、というところがポイントです。
西洋の基本的なデザインはむしろ植物だった。日本の唐草模様のルーツを辿ると、ギリシャのアカンサスという植物の文様になります。しかし日本では、水が一つの基本的なデザインのルーツになっている。この紅白梅図でもそのことがわかると思います。
葛飾北斎「神奈川沖浪裏」
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もっと有名なのが北斎の「神奈川沖浪裏」です。北斎がここで描こうとしたのは、遠くの富士山と近くの大波です。その大波の「浪裏」に裏富士を描いたとする解釈もあります。「浪裏」は水滴の雨です。波頭から散っていく小さな水滴。この水への好奇心、水の風景の迫力。それは「水」の感性を抜きにしては出てこない。
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ターナー「難破」
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同じく海を描くにしても、たとえばターナーの描く海となると、趣は違ってきます。波頭が一応ありますが、全体の印象は天空と大海原とのせめぎ合いです。大海原はずしーんと重量感をもったマッスです。ターナーが描こうとしたのは天空との対比における大海原の浪裏です。
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水への関心というよりは、天空に対する海への関心です。海はもちろん水から成りますが、関心の方向は、自然のエレメントとしての水ではありません。
日本の造形の基本的な傾向は、面と線を考えると、面よりは線の方が主軸になる。このちがいが「波」の描き方にも現れるわけです。
水の感性を造形の根本におく
ヨーロッパでは、たとえばヴェルフリンという美学者が「線から面へ」と言うように、線の絵画の次に面の絵画ができるという見方があるのですが、そこでは、どちらかといえば面が基本です。日本でも大和絵などは面的ですが、水墨画から書道に至ると、線が基本です。
ヴェルフリンのいう「線から面へ」は、未発達なものから発達した高級なものへという意味。ところが上田桑鳩の「線から面へ」は、線という根本的なものから面への拡がりという意味です。線の方が根本的です。
日本語の場合は仮名文字を持っていますから、仮名書道までいくと、今度は雨の絵、夕立の絵と同じように、どこか水の感性をそのまま造形の根本におくような作品になっていく。こういう日本的な特色を持った造形の根底に、ストレートに材料としての水を見る場合もありますし、美しい水を持った風土の中の感性をみることもできるのです。
福田平八郎「漣」
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こういう感性の作品は、明治になってからもあり、たとえば福田平八郎の出世作「漣(さざなみ)」がそうです。波を形づくる線が砕けて漣になっていく。だから「線から点へ」です。カンディンスキーの「点と線から面へ」の場合は、点が原点で、そこから線になっていく。しかし「漣」の場合は、線から点へという根元としての線がある。
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さきほどの広重の絵と、この福田平八郎の絵とは、全くジャンルの違う絵ですが、そこにつながっていくものがある。そのつながりは、ストレートにいえば水です。あるいは水の美学的な感性です。
大きな拡がりをもつデザインの中の水の感性を蘇らす
今までお見せしたのは、日本の風土の中に水的な感性があるということですが、現在ではどうなっているのか。
私が出席したボンの水の会議でも、大きなテーマは発展途上国や近代国家の中の水の環境はどうなるのかということでした。近代になって、水の環境は急速に破壊されつつある。ならば現代社会のなかで、水の感性も壊れて消えていくのか、あるいは、伝統のなかでかろうじて保存されるものなのか。ないしは、これからも生き続けていくのか。
安藤忠雄「水の教会」
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これは安藤忠雄の「水の教会」です。彼のつくる建築は、どこか水のエレメントを感性レベルで取り込んでいるところがある。水を建築のなかに取り込む、水辺に建築をおくということは、恒存的な建築の中に流動的な水の要素を取り入れるということです。コンクリートの打ち放しの建築の内部空間に流動性を持ち込むわけです。
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空間を流動化し水化していく。これは神社建築にも見られる。日本人の持っている水的な感性が、昔も今も建築のなかにも生きています。
デザインも、用に関する限りは生活に密着しています。生活と密着しているからには、生活感覚が滲み出ざるを得ない。それはアートとデザインの違いです。デザインは用という宿命を持っていて、同じシンプル・フォルムでも、ミニマルアートのような無機的な遊びといったものではない。それは生活にとけ込んでいく。あるいは生活の情感を表現する。そういう意味でのシンプル・フォルムです。
コルビュジェは「建築は住むための機械である」として、徹底的に機能主義を追求しました。そのモダニズムが、30年前に一つの曲がり角に来て、ポストモダンが出てきました。どうしてポストモダンが出てくるかといえば、人間にはどこか機能主義だけではないものがあるからです。「遊び」への希求がある。ポストモダニズムは、モダニズムの中に、遊びを持ち込んだといってもいいと思います。
ネオ・モダニズムになると、機能主義に美的なフォルムをはっきりと、自覚的に取り入れている感じがします。しかしアートのようなきれいさではなくて、生活にとけ込んでいる。GKの制作例を紹介しましょう。これらのデザインは、単なるミニマルアートでもないし、モダニズムでもない。ポストモダンのような遊びでもない。
これらネオ・モダニズムのデザインの内部にも、水の美学につながるような感性が入りこんでいます。グローバリズムの時代、アメリカン・グローバリズムの世界、そういう中で、個々の文化が消えていくかどうかが問題になっています。マクドナルド一色の文化になるのか。あるいはそれぞれの地方と国の文化がむしろ蘇るのか。
デザインするということは大きくいえば、社会全体をデザインするという意味を持つと思います。デザインというのは、現代社会の中でとてつもなく大きな役割を持つ分野だろうという気がします。その大きな拡がりを持ったデザイン造形のなかで、水の風土のなかで培われた水的な感性、水の美学的な感性が蘇るならば、そこにひとつの文化的可能性が開かれます。日本の伝統的な美的な日本の美学と感性が、単なる江戸時代のものではなくて、現代のなかに形をかえてメタモルフォーゼとなって蘇ってくる、ということがあると思うのです。
最近の生命倫理の問題でいえば、ES細胞のようなものが、この命に当たるかもしれません。ES細胞はどの臓器にもなる。文化におけるES細胞的なものは、どこの土地にも文化にもあるのではないか。日本文化のいわばES細胞的なものとして、水の美学があるのではないかと思うのです。
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